花簇々錦簇々『碧巌録』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「花簇々錦簇々『碧巌録』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

おはようございます。今日の禅語は「花簇々(はなぞくぞく)錦簇々(にしきぞくぞく)」です。これ禅語ったーでは『無門関』が出典になっていますけど、どうも私のミスで『碧巌録』第十二則「洞山麻三斤(まさんぎん)」の間違いです。後で訂正しておきますね。

洞山麻三斤の本則は「乾屎蕨(かんしけつ)」同様に、「如何なるか是れ仏」(仏とはなんですか?)という問いに対する思いもつかない意外な回答として有名です。
ここで登場する洞山禅師とは、曹洞宗の開祖である曹渓山の洞山良价禅師ではなく、雲門禅師の法を嗣ぐ洞山守初禅師のことだそうです。
ある日一人の僧が「仏とは何ですか?」と尋ねました。洞山禅師の答えが「麻三斤」だった訳です。「麻三斤」の詳しい説明はここでは省きます。例によってまた何時の日か、麻三斤が出た時に残しておきましょう。

一方、問いの「如何なるか是れ仏」は、この時代、彼方此方で聞かれる言葉です。「仏とは何か?悟りとは何か?真理とは何ですか?」という質問者の切実な問いです。今日的にいえば「人生で最も大切なこととは一体何ですか?」という様な問いでしょうか。
それに対する洞山禅師の答えが既に述べたように「麻三斤」であった訳ですが、 この洞山禅師に質問した修行僧は、この洞山禅師の答えを理解出来なかった為、その後、智門和尚(徳賢和尚という説もある)という人のところに行って、「洞山和尚に『如何なるか是れ仏』と尋ねると『麻三斤』と言われましたが、その意味は何ですか?」と尋ねたのです。

その時の智門和尚の答えが「花簇々、錦簇々」でした。
簇々とは群がっている様で、花が一杯咲き乱れている様子を表した言葉です。5月頃のツツジやサツキが満開の様子を思い起こさせます。
『禅林句集』では「言いようのない美しさ見事さ。天真の妙そこにあり」と解説されています。
この僧「見渡す限りの花いっぱいだ、判るか?」と智門和尚に言われましたが、判りません。「不会、わかりません」
「それならば、南地の竹、北地の木だ。判るか?」と更に示して貰ったのですが理解することが出来ませんでした。
そこでこの僧、再び洞山禅師の元に戻って、「智門和尚に麻三斤の意味を聞いたら、『花簇々錦簇々』とか『南地の竹、北地の木』と言われましたがどういう意味ですか?」と聞いたものですから、「お前みたいなアホは知らんわ」と呆れられてしまいます。
そこで「皆の為に話しておこう」と言われて仰ったのに「言葉というものは、物そのもの、真理そのものを表すことは出来ない。言葉尻について回ると、本質を見失ってますます迷ってしまうぞ」と警告されています。

さて
Q「如何なるか是れ仏?」
A「花簇々錦簇々」
ですが、お判りになりましたか?

将謂胡鬚赤更有赤鬚胡『無門関』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「将謂胡鬚赤更有赤鬚胡『無門関』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

今日は「将(まさ)に謂(おも)えり胡鬚赤(こしゅしゃく)と、更(さら)に赤鬚胡(しゃくしゅこ)有らんとは」という、まるで早口言葉みたいな禅語ですが、直接の意味は「胡人の髭は赤いと思っていたら、赤髭の胡人がいたわい」ということです。胡人というのはペルシャ人のような西域の人々を指しているのだと思いますが、ここでは胡人や赤髭にさしたる意味はありません。「アメリカ人は目が青いと思っていたら、青い目のアメリカ人が居ったわい」くらいのことです。

この禅語は『無門関』第二則、有名な「百丈野孤」に出てきます。
百丈野孤のお話を、柴山全慶著『無門関講話』創元社を参考に引用してご紹介します。

百丈和尚が禅の講義を行う時、いつでも一人の老人が修行僧と一緒に聴講していました。ところがある日、講義が終わったのにその老人だけがその場に残っていたので、百丈は「私の前にいるあなたは何者ですか?」と尋ねたところ、その老人が言うのに、「自分は人間ではなく、大昔、迦葉仏の頃にはこの寺の住職であったが、ある時一人の僧が『悟りを開けば因果に落ちるか否や?』と聞くので、『因果に落ちない』と答えました。ところがその所為で自分は野孤に生まれ変わり、五百年間も生まれ変わり死に変わりを続けています。どうか和尚さん一転語を説いて、私を野孤の身から解脱させて頂けませんでしょうか?」というのです。
そしてその老人は百丈和尚に尋ねました。「悟りを開けば因果に落ちるか否や?」と。
そこで百丈は「因果をくらまさない」と答えた所、その老人はたちまち悟りを開いて、百丈に礼拝して言うのには、「おかげで野孤身から解脱することが出来ました。裏山に一匹の狐の死骸がありますが、どうか僧侶の作法で葬って下さいませんか」というので、百丈は一同に知らせて狐の死骸を火葬にした。
夕刻、先のことと次第を弟子達に話した所、黄檗が「件の老人は正しい答えを言えなかったので、野孤として五百年間も生まれ変わらなければならなかった訳ですが、彼がその都度答えを誤らなかったら、彼は何になっていたのでしょうか?」と百丈に尋ねました。
そこで百丈が、「もっと近くに寄りなさい。教えてあげよう」というと、黄檗は前に進み出ていきなり百丈の横っ面を叩きました。
その時に百丈が大笑いして言った言葉が今日の禅語。
「胡人の髭は赤いと思っていたら、赤髭の胡人がおったわい!」という言葉なのです。

これはもう余り説明のしようがないのですが、不落不昧と昔からやかましい公案です。あの松江の藩主、松平不昧公も恐らくこの「百丈野孤」に因縁があって、「不昧」と号せられているのだと思います。
知識として学問的にもう少し詳しく知りたい方は、『無門関』の解説本をご覧頂ければ宜しいと思います。私も野孤身に堕するのは嫌なので、余計なことは言いたくありませんが、今日の禅語が言いたいのは主客の自由な働きです。因果に落ちる、因果に落ちない、という二元的対立を乗り越えて、因果をありのままに受け止める。それが不昧因果ということであり、落不落に左右されない自由な立場から、黄檗は百丈に師弟の立場を越えた活溌溌地な働きを見せたのだと思います。

この黄檗の「〇〇だったらどうでしたか?」なんていうタラレバの問いは、実は「もしあの時、あ~だったら、こうしていたら」と思い悩む私達凡夫に対して向けられたものであり、黄檗の一掌は過去に囚われている私達の横っ面を引っ叩いたのでありましょう。
それを見た百丈が手を叩いて喜んで出た言葉が「おー胡人の髭は赤いと思って居たら、赤髭の胡人も居るじゃないか」というお話しでした。

追記:公開後ですが読み返して思ったことを自分の備忘録として追記しておきます。
よく「運命ってあるんですか?」と仰る方が居ます。仕事での失敗や病気や家族の死など、人は様々な不幸に出会うと、「これって初めから決まっていたんじゃないか?」と思うことがあります。
仏教は因縁こそが万物普遍の真理であると説いています。ですから生れや家族兄弟の行いなど、自分が全く与り知らない所での何かでも、全く影響を受けないということはあり得ません。やはりその影響下にあります。
しかし、影響下にあるからと言って、それで人生全てが決定している訳ではけしてありません。そのご縁の中でどう生きていくかは、やはり自分次第によって大きく変るのです。
ですから仏教は運命論ではありません。
ひょっとしたら、「どうせ何をやっても。運命だから仕方ないよ。」という人は因果に落ちている人なのかも知れません。
一方、自分の生まれたご縁を大切にしつつ、自分の足でしっかりと生きて行くことこそが不昧因果ということではないでしょうか。

時時勤払拭『六祖壇経』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「時時勤払拭『六祖壇経』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

さてお盆やその後の休息も終わり、禅語の更新を再開したいと思います。
今日の禅語は、六祖慧能禅師の語録である『六祖壇経』に出てくる、神秀上座の「時時勤めて払拭し」ですね。

後に六祖となる慧能は、幼くして父を亡くした為、嶺南で薪を売って暮らしていたが、ある時一人の人が『金剛経』を読誦しているのを聞き心が晴れた、そこでそのお経をどこで手に入れたかを尋ねると、黄梅山の五祖弘忍禅師に頂いたと聞き、五祖のもとを尋ねます。
初めて五祖と正見した時、「お前は何を求めてどこから来たか?」と尋ねられ、「嶺南から来た平民だが仏になりたくてやって来た」と答えると、(当時の中国では南の人間は劣ると考えられていた為)「どうして嶺南の山猿が仏になれようか」と五祖がいうので、「仏性に北も南もありますまい」と答えたところ、見所があると見込まれたが、正式の出家もしていなかった為、寺男として働いていた人物です。

実は私も約25年前の雲水時代、師家であった香南軒老大師の計らいで他の雲納とともに制間中、黄梅の五祖寺に参拝したことがあります。
六祖は身体が小さかった為、米を搗くのに腰に石を結わえ付けて搗いていたという伝説がありますが、その時「これが六祖が腰にぶら下げていた」という石を見せて貰ったことがあります。当時はそれほど感慨はありませんでしたが、今思い出すと本当に希有なご縁に恵まれたと感謝するばかりです。

さてある日、五祖は自分の後継者を決めようと一山の弟子全員を集めて言いました。「お前達は自己の境地を託した一編の詩偈をそれぞれ作って持ってきなさい。優れた者を六祖にしよう」と。
しかし殆どの修行者は、どうせ我々が作っても無駄だ、恐らくは秀才で優等生でもある神秀上座が後を嗣がれるに違いないと噂しました。
そこで神秀はみんなの期待に応えるべく偈を作ったのですが、五祖の部屋に持って行こうとすると緊張で部屋に入ることが出来ません。
13回も提出を試みたのですが、とうとう渡すことが出来なかったので、五祖の目に付くように壁に書き付けた偈が次のようなものでした。

身は是れ菩提樹にして
心は明鏡臺の如し
時時勤めて拂拭し
塵埃を惹かしむること勿れ

身体は悟りの樹であり
心は澄んだ鏡のようである
いつも綺麗に掃除を怠らず
けして(身体や心を)塵や埃で汚してはならない

大衆は皆、素晴らしい偈だと讃えますが、しかし五祖はこの神秀の偈を見て、まだ本当の悟りを得ていないとしてもう一度作ってくるように言います。

ところが数日後、寺の者が口々に神秀の偈を口ずさんでいるのを聞いた六祖は、字も読めない身でありながら神秀の偈を聞いて即座に思うところがあって、自分の心境を託した偈を先輩の張日用という人に壁に書いて貰った。
それが有名な次の偈です。

菩提に本と樹無し
明鏡も亦た臺に非ず
本來無一物
何の處にか塵埃を惹かん

悟りには樹などという姿形は無い
澄んだ心にもまた台など無い
本来は無一物
どこに塵や埃がつこうか

この偈によって慧能が六祖として認められ、五祖の衣鉢を嗣いで南宗禅の開祖となり、後に所謂五家七宗として発展していく訳です。
南宗禅は別名、頓悟(とんご)禅とも言われ、悟りの機微を重んじるのが特徴です。

一方の神秀ですが、こちらは北宗禅として法系が嗣がれ我が国にも伝教大師最澄などによって奈良時代平安初期もたらされています。
慧能の流れを汲む荷沢神会などは、北宗禅を漸悟(ぜんご)禅(段階的に悟る禅)と批判しましたが、けしてそのような階梯的では無かったことが後年明らかとなっているようです。
ただ北宗禅の法系は、845年(会昌5年)の会昌の廃仏によって絶えたようですが、やはり頓悟を旨とする現在の禅に於いても、「時時勤めて払拭すべし」という教えが大切である事は間違いないでしょう。
本来は無一物だとしても、無一物だから何もしなくても良いということではないのです。
それは無事禅とまた批判されるべき対象でありましょう。

一段風光画不成『普燈録』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「一段風光画不成『普燈録』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

こんにちは。今日は「一段の風光、画けども成らず」ですね。
『嘉泰普燈録』は宋時代、嘉泰年間(1201-1204)に編纂されたもので、『景徳伝燈録』、『天聖廣燈録』、『建中靖国續燈録』の後を継承し、これを増補した禅宗灯史の一つ。僧侶だけでなく、王侯士庶女流尼師等までに及んでいるので『普燈録』と名づけたとのことです。
今日の「一段の風光、画けども成らず」も小艶という女性が作った詩の言葉であります。

しかし不思議なものですねぇ。昨日、『夢中問答』を紐解きましたが、その時に偶然見かけた問答の中で、夢窓国師もまたこの小艶の話を引き合いに出して直義に答えておりました。まさか今日その事に触れるとは夢にも思っていなかったのですが、確かに禅語は類語も多く、一つを調べているとアレもコレもと色々引っかかっては来るのですが、しかしとは言えども星の数程ある禅語の中で、たまたま偶然とは言え関連があって繋がってくると言うのは、何かに導かれているような気分になります。

まず、『普燈録』二十八霊厳安頌古の原文を引用してみましょう。
国師、侍者を三喚す。
一段の風光、画けども成らず、
洞房深き処、予情を暢ぶ。
頻りに小玉を呼ぶも元より事無し
只檀郞が声を認得せむことを要す。

この最初の国師が誰を指すのかよく判りませんが、国師が侍者を喚ぶことと、小艶が小玉を呼ぶことを重ね合わせているのだと思います。小艶の詩はその後の四行です。
それで夢窓国師は『夢中問答』の中で、直義の「禅宗に五家というのがあるのは、その内容に違いがあるのか?」という問いに対する答えの中でこの話を持ち出し、詳しく説明していますのでそれを参考にご説明します。
因みに、先の直義の問いに対しても、昔、中国の役人が五祖法演禅師に禅門の宗風を問うた時、この小艶の詩を紹介して、「この詩の意によせて大概を知るべし」と答えたことに由来し、その意味する所を説明しています。

最初に詩の内容を現代語訳すると次の通りです。

一段の風光、画けども成らず、 (自分の心情を述べようとしても難しい)
洞房深き処、予情を暢ぶ。 (奥深い部屋に居ては想いを伝えがたい)
頻りに小玉を呼ぶも元より事無し (しきりに侍女の小玉を呼ぶが別に用がある訳では無い)
只檀郞が声を認得せむことを要す。 (ただ外に居るあの人が、私の声を聞いて私が居ることに気づいて欲しいだけ)

夢窓国師は「この詩は女人の作なり。檀郞とは、この女人の忍びて申し通はせる男なり。ある時、かの男この女人のすみける洞房の辺りに来て遊びけり。
この時女人は、我れはこの洞房の内に有りと知らせたく思へども、外聞もつつましく覚ゆる程に、召し使う小玉を頻りによびて、障子をあけよ、簾をおろせなむどいへども、その意すべてかやうの用事にはあらず。
ただ偏にかの男のこの声を聞きつけて、この女房はこの内に有りけむと知らむことを要するなり。」と言っています。

さらに続けて「五家の宗風も亦、かくの如し。皆これ小玉をよぶ手段なり。その言句・体裁のかはれるについて、勝劣得失を批判するは、宗師の本意を知らざる人なり。」と直義の問いに答えています。

ここでいう五家とは臨済宗、曹洞宗などの禅宗の五つの宗派のことですが、今日的には禅宗だ、密教だ、浄土教だという宗派の違いだと考えても良いかもしれませんね。
それぞれの宗派の教義や祖師の言葉を、あれこれあげつらって比較議論するのは、あたかも小艶が小玉を用も無いのに、「小玉!障子を開けなさい」、「小玉!簾を下ろして頂戴!」と言っている、その言葉尻をとらえてあれこれ議論しているようなものである、と言うことでしょうか。
仏祖の本心は、ただ全ての人に仏心仏性があることを気づいて貰いたい、その思いだけで沢山の経論や語録を残されているのですよ、というのがこのお話の趣旨であり、そういう言葉に出来ない想いを込めた言葉が「一段の風光、画けども成らず」なのです。

別無工夫『夢中問答』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「別無工夫『夢中問答』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

おはようございます。『夢中問答』は天龍寺開山の夢窓国師こと、夢窓疎石(むそう そせき、1275年~1351年)が書いた仮名法語で、夢窓国師が足利尊氏の弟、足利直義の質問に答えるQ&A形式の禅問答集です。
どうも調べてみると相国寺に夢窓国師の墨跡で「別に工夫無し」の一行書があるそうでして、それは『夢中問答』中のなかの

「万事の中に工夫をなす人あり、工夫の中に万事をなす人ありと申すは、何とかはれることやらむ」

という直義の問いの答えを一言で表現したもののようです。

「もっと工夫しろ!」「工夫が足らん!」と僧堂ではよく叱られます。そのニュアンスを他の言葉で伝えるのは意外と難しいのですが、今日的な「単に発想を転換して新しいアイディアを出す」という意味だけでは無いようです。
公案を拈提(ねんてい、考える事)することも、公案を工夫するともいいますし、例えば雲水は15人いるのに食事の材料が5人前しか無い時にも使います。「スイマセン、お米は10人分しかないのですがどうすれば良いでしょうか?」「工夫しろ!」てな具合です。
いくら工夫したって5人前が15人前になる事は絶対にないのですが、食事係の人はそこを工夫しなければならないです。
或いは時間だってそうです。「今日は何時までにコレとアレをして、何時までに出掛けなければならないのですが時間が足りません。どうすればいいでしょうか?」てな場合も、「工夫しろ!」です。

要は、ざっくりいうと「何とかすること」を「工夫する」と言っているように思います。
でもこの工夫することを教えて貰ったおかげで、僧堂を出てからも、色々と役立っていると思います。
お寺にお金がなくっても、工夫すれば何とかなる様な気になるから不思議です。
日本も震災や放射能被害、さらに水害や超円高と、いよいよ四面楚歌の様相を呈してきていますが、いよいよみんなで工夫した方が良いですね。

さて話がそれましたが、足利直義が夢窓国師に聞いた訳です。
「万事の中で工夫する人と、工夫の中で万事を行う人とはどう違うのですか?」と。

興味がある方は直接『夢中問答』を読んで頂くと良いのですが、長い答えなので私流に要約します。
「工夫」というのは唐の俗言で、日本語の「いとま」、一切の仕業のことです。
米を作るのは農民の工夫であり、家を建てるのは大工の工夫で、同様に道を求めるものが修行することを工夫といった迄のことです。
かつての修行者達は、これは生活(万事)の為の行為か、修行の為の行為かなどと分け隔てて考えてはいませんでした。修行者の生きる目的は一大事因縁を解決することであり、寝ても覚めても四六時中、道を求めて工夫していた訳です。

ところが最近はそうもいきません。みんながみんな道を求めて出家したからでは無いからです。様々な宿縁によって僧になった人達は、四六時中坐禅しようなどとは考えません。
日常生活の中で、食事の時間には食事に気をとられ、お経を読む時にはお経に気をとられてしまい、本分の己事究明という肝心な工夫がおろそかになります。
そこで道場では坐禅の時間やお経の時間など、時間を定めて日々の修行カリキュラムを行うようになった訳ですが、別に坐禅の時間以外は本来の工夫を行ってはいけないという訳ではありません。
ですからやる気のある人は、坐禅の時だけが本来の修行、工夫だとは考えていません。食事の時も、お経を読む時も、お風呂に入る時も、全てが修行であり、工夫であると考える人がいます。

このような人を「万事の中で工夫する人」というのです。

このような人は、坐禅をしている時間だけが工夫である、修行であると考える人達よりは優れていますが、万事(日常生活)と工夫(仏道修行)を差別して、分け隔てていますので、ややもすると日常生活にかまけて仏道修行を怠ってしまうことがあります。これは則ち「心外に万法を見る」からです。

古人は、山河大地、森羅万象全てが自己であると言っています。このことをよく理解するならば、工夫の外に万事無し。すなわち工夫=仏道を行じていく中で、食事をしたり、本を読んだり、話を聞いたり、泣いたり笑ったりと生きて行く訳です。

このような人を「工夫の中で万事を行う人」といいます。

これは則ち、無工夫の工夫であり、無用心の用心であり、このような人にとっては憶えることも忘れることも工夫ですし、寝ても覚めても隔てがないのです。
古人は「日常生活の喜怒哀楽の中に仏道はある」と言い、「仏道は何処にでもある」と言っていますが、皆同じことです。ただ、たとえこのことを会得したからと言って、それは仏道修行によって得たちょっとした手柄に過ぎず、祖師の本分を会得したとは言えません。

以上が『夢中問答』を私なりに読んでみたところです。
工夫の真っ只中に生きているから、別に工夫無しなのですね。

吹毛常磨『大燈遺偈』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「吹毛常磨『大燈遺偈』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

おはようございます。今日の禅語は「吹毛(すいもう)常に磨く」という、大徳寺の開山、大燈国師こと宗峰妙超(しゅうほう みょうちょう、1282年~1338年)がお亡くなりになる時の辞世の句、遺偈の中の一句です。

大燈国師の行履(あんり、日常の行いのこと)はWikipediaに載っているのでそちらもご覧頂くとして、幾つかの逸話をご紹介しましょう。

大燈国師は、紀貫之の子孫と言われる播州揖保の浦上氏、浦上一国の子として生まれ、母親は赤松円心の姉です。
まだ大燈が生まれる前、両親は子供を授かるよう、日夜、書写山の観音様に祈願したそうです。するとある日、母が夢で一人の僧侶が白花の五葉開いたのを持ってくる夢を見て孕んだと言われています。
11歳の時に書写山で出家して律や経論を学んだ後、各地を行脚し、鎌倉万寿寺の高峰顕日や大応国師に就いて禅を学ばれます。
高峰のところでも、「これ真正の見解なり、よろしく法幢を建て宗旨を立すべし」と認められたようですが、さらに大応国師の評判を聞いてその門を叩きます。ところが大応は厳しくてなかなか許しを得ることが出来ません。大燈は、朝に晩にと真剣に参禅したので、大応は病気の時、他の者の参禅は許さなかったが、大燈だけは参禅することが許された程だったと言います。
そうした多年に渉る峻烈な参禅の末、ついに有名な「雲門の関」という公案を透過(とうか)し、印可を受けます。
この時、大応国師は「昨夜、雲門大師が私の部屋に入ってくる夢を見た。そして今日お前さんは関の字を透った。お前さんは雲門禅師の再来である」と言って喜んだそうです。

そしてこの時、師である大応は「お前さんは完全に真理に合した。私はお前さんには及ばない。今後はひたすら二十年間は世に出ず悟後の修行をして、その後にこの印可証明を公表しなさい。と同時に紫衣をゆずったことをここに表明する」と書き付けています。
その言葉の通り、大燈は大応が亡くなるまでその側について修行を続け、遷化後、喪が明けるのを待って京に上り、五条大橋辺りの乞食と一緒に生活しながら、悟後の修行をつづけました。
その頃の大燈の歌に

坐禅せば 四条五条の橋の上 往き来の人を深山木(みやまぎ)に見て

と、当時の大燈の様子を窺わせるものがあります。
またある時、都では刀の切れ味を確かめる為に、橋の下の乞食を試し切りするような辻斬りが横行していたのだそうですが、大燈国師が坐禅している姿は寸分の隙も無く、荒れくれ武士どもも手を出せなかったと言われます。

このような生活を続ける大燈のことを、「大応国師の法を嗣がれた方が、四条五条の河原乞食の中に居られる」と花園法皇が聞きつけ、なんとかお迎えしたいと探すのですが見つけることが出来ません。
そこで、大燈国師は真桑瓜がお好きだと聞きつけた花園法皇は一計を案じました。夏の炎天下の元、花園法皇は沢山の真桑瓜を用意して、河原に住む乞食達に振る舞ったのですが、この時家来に瓜を渡す時に「足なくして来るものにこれを与えん」と言うように命じたのです。
殆どの乞食達は、何のことかと( ゚Д゚)ポカーンとしていた訳ですが、ある一人の眼光鋭い乞食だけが「手を用いずに出せ」と言ったので、この方が大燈国師に違いない、ということで宮中に召されることとなったそうです。

そして花園法皇と初対面の時です、昨日まで乞食であった大燈国師が袈裟をつけたら余りにも堂々としているので、花園法皇が「仏法不可思議、王法と対坐す」というと、大燈は「王法不思議、仏法と対坐す」と言ったと伝えられています。
後に風顛漢で知られる一休禅師も、この大燈国師の二十年にも及ぶ質素な暮らしを高く評価し、慕われています。

さらに亡くなる時には結跏趺坐して坐ったまま亡くなる、坐亡(ざぼう)をされようとしたのですが、長年の厳しい坐禅修行の結果、足を患って居られた大燈国師は「最後くらいワシの言うことを聞け!」と曲らない足を無理矢理骨を折って端座され、衣が赤く血で染まったと伝えられています。

そうした気概溢れる鋭い禅者であった大燈国師が亡くなる時の境地を表現したのが次の遺偈です。

仏祖を裁断し
吹毛常に磨く。
機輪転ずる処
虚空、牙を咬む。

非常に難解で、私のような者が解釈することは不遜でありますので、そのままを味わって頂くのが一番だと思いますが、用語の説明だけしておきます。
仏祖=お釈迦様や歴代の祖師方
裁断=断ち切ること
吹毛=吹毛剣のこと。『碧巌録』100則「巴陵吹毛剣」に出てくる。細く柔らかい兎の毛でも、吹きつけただけで切れてしまうような鋭い刃。
機輪=師家がその禅機を発動して弟子達を導いていく働きに喩える。「輪」はその機用の展開ぶりを車輪の回転になぞらえたもの。『碧巌録』79則頌評唱に出てくる。
虚空、牙を咬む=『臨済録』上堂、『宏智(わんし)広録』四、『虚堂録』六に「虚空に橛(けつ)を釘(う)つ」という言葉がある。糠に釘のこと。「虚空、牙を咬む」も同意か?

直指人心 見性成仏『伝心法要』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「直指人心見性成仏『祖庭事苑』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

おはようございます。今日の禅語は「じきしにんしん けんしょうじょうぶつ」と読みます。
出典は『祖庭事苑』となっていますが、この『祖庭事苑』が何なのか?どういった書籍なのか存じませんでしたので『禅学大辞典』で調べますと、宋時代の睦菴善卿によって作られた禅書中最古の辞典なんだそうで、1154年に重刊されています。
一方、『禅語辞典』によると『伝心法要』十六とあります。『伝心法要』は黄檗希運禅師の提唱を裴休という人がまとめたものだそうで、857年に序文が書かれています。こちらの方が古いので出典は『伝心法要』が正しいですね。「禅語ったー」も訂正しておきます。

さてその意味について、『禅語辞典』から抜粋しますと「人の心そのものを直指し、その心性を洞見せしめて仏と成らせる」とあります。
ボキャブラリーが貧困なので「洞見」なんて言葉初めて知りましたが、要は心の奥底をのぞき込むような事でしょうかね。

昔から「月をさす指」ということが言われます。仏心・仏性というもの、或いは悟りというものが遠く離れたお月様であるならば、経典や語録に書かれている教えは、その月の方向を指し示す指ではあるが月そのものでは無い。一生懸命指を見てもそこに月は無いのだから、月そのものを見なさい、というような意味で使われます。達磨の「不立文字 教外別伝」というのもそういう事です。

その月そのものを体験的に理解することを、「直指人心 見性成仏」というのでしょう。
見性とは自己の本性、すなわち仏性を見ることです。それが仏陀、覚った者と成ると言うことです。

ちなみに余談ですが、お釈迦様の本生譚(ジャータカ)というものがあります。
あれは、お釈迦様はゴータマ・シッダールタという実在の人物でしたが、ゴータマとしての修行だけで悟りを得て仏陀と成られた訳では無い。そこに至るまでには、長い年月、ある時は身を挺して火事を消そうとした鳥であったり、ある時は乳の出ない母虎に身を投げ出した青年だったりと、様々な前世の善い行ない、功徳の積み重ねがあってこそ、ゴータマ・シッダールタの時に仏陀と成ったのだ、という考えに基づいたお話しです。
ある種、ヒンドゥー的な階級制度を補完するようなお話しでもあるのですが、まぁそれだけ今も昔もバラモン教の影響は大きかった訳ですね。

で、ゴータマは仏陀と成った訳ですが、実は当時の仏教では一つの世界には一人の仏しか存在しないと考えられていました。
もっと正確に言うと、同じ時代に同じ世界に存在する仏はただ一人といった方がいいでしょうか。過去七仏と言いますが、この世界にはお釈迦様以前にも六人の仏がいました。
しかしゴータマ・シッダールタが仏陀と成った後は、しばらく仏は現れません。ですからそれが無仏の時代を説く末法思想に繋がった訳です。
次にこの世界に仏が現れるのは釈迦入滅後、五十六億七千万年後です。いま兜率天で修行している弥勒菩薩が悟りを開いてやって来るまで待たなければなりません。
いや仏教には他にも仏がいるではないか?という方、確かに仏は他にも居ます。お釈迦様の前にも6人の仏様が居ました。でもそれはそれぞれ時代が違います。

或いは又、「如来」と呼ばれる方々はみんな仏でありますので、この時代にも違う世界には仏がいらっしゃいます。
例えば、阿弥陀如来がいらっしゃる世界はこの世界ではありません。この世界から十万億土も西に行った西方極楽浄土に住む仏が阿弥陀さまです。或いは東にズーッと行きますと、薬師如来が住んでいる東方浄瑠璃世界があります。でもそれはこの世界では無いのです。

曼荼羅を思い出して下さい。大日如来を中心として沢山の仏さまが集まっている世界。実はあの沢山の仏さま達は、それぞれが一つの世界=浄土を象徴しているのです。だから大乗仏教以前の部派仏教の考え方では、どんなに修行をしてもお釈迦様以外は仏には成れません。成れるのは阿羅漢までです。十六羅漢とかで有名なあの方達が阿羅漢です。

ところが大乗仏教は菩薩という考え方をあらたに作りました。そしてさらに誰もが本来は生まれながらに仏心・仏性を持っているのだから、そのことに目覚めさえすれば誰でもが仏になれると説きました。
それが「直指人心 見性成仏」ということです。
お互いに、一日一度は静かに坐って、身体と心と呼吸を調えましょう。

巖谷裁松『臨済録』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「巖谷裁松『臨済録』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

おはようございます。今日の禅語は「厳谷に松を裁える」です。厳谷と聞くと切り立った岩山をイメージします。実際、山奥の渓流やリアス式の海岸に行きますと、断崖絶壁に見事な松が大きく枝を伸ばしている様子を見ることが出来ます。けして恵まれた生育環境では無いそうした岩山に、敢えて松を裁えるということでしょうか。

この言葉、元々は臨済宗の宗祖、臨済義玄禅師(?-867年)の『臨済録』の序文にある言葉です。この序文は宋時代の政府高官、馬防という人が『臨済録』全体の内容を要約して書いた文章ですが、なかなか臨済禅師の生涯やその教えの内容を的確にまとめた序文として有名です。私も僧堂の新到時代、師家であった中村文峰老師から「昔の雲水は行脚に出て、臨済宗の寺に一晩の宿をお願いする際、雲水である事の証として臨済録の序文を諳んじていたものだ。お前さん達も暗記しなさい。」と言われて憶えたことがあります。

その中に「厳谷に松を裁う、後人の標榜」という所があります。これは『臨済録』「行録」(あんろく)にある「臨済裁松」の因縁を示したものです。
「臨済裁松」とは、臨済禅師がまだ黄檗山に居た時の次のようなお話しです。
臨済禅師がある日、松の苗を裁えていました。
それを見た師匠の黄檗禅師は「お前さん、こんな深山に松を裁えて、一体どうしようというのかね?」と尋ねました。
まぁ山の中ですから松の木はその辺りに一杯生えていたことでしょう。あるいは又、断崖で裁えても中々育たない様な場所だったのかも知れません。
いずれにせよ黄檗禅師は臨済禅師を試したのか、「お前さん、そんな事やって何になる?」と聞いたのです。

山田無文老師の『臨済録』禅文化研究所には、無文老師の師である関精拙老師と精拙老師の師である高木龍淵老師の「労して功無し」という逸話が出ていますが、私達は、ついより少ない労力でより多くの結果を得るような効率ばかりを追い求めてしまいます。しかしこの「臨済裁松」はそうした成果主義に対するひとつのアンチテーゼとも言えるでしょう。
いずれにせよ重要なことは、「お前それが一体何になる?」という黄檗禅師の問いです。

考えてみれば私達生命あるものは、皆必ず歳をとり、病を得て、いずれ死にます。これはお釈迦さま出家の因縁でもある真理です。
今、景気の悪い中でも学生さん達は一生懸命勉強して居られますし、家庭を持っている方も必死で家族を守っていることでしょう。会社を経営している方など、それこそ従業員の生活もありますから大変な思いでご苦労されていることと思いますが、「お前、一体それが何になる?」と問われた時、胸を張って「こうだ!」と言える人が一体どれほど居られるでしょうか?
むしろ、良い会社に入る為にと頑張ってきたのに内定が得られないとか、子供の為を思って来たが大きくなったら見向きもしてくれないとか、会社に全てを捧げてきたのにリストラされてしまったなど、人生を問い直している人の方が多いのかも知れません。
そうした疑問に対して禅からのひとつの回答としては、結果ばかりを求めるのではなく、「労して功無し」でいいじゃないか、という考え方があります。これはまぁ、私の好きな言葉でもある「雪を担って井を埋める」という禅語も同じ意味なのですが、「結果や効率を求めない」という考え方は禅門一般にある考え方です。

じゃあ何の為なのか?と言うことですが、この問いに対し臨済禅師はこう答えています。
「一つには山門のために境地と作し、二つには後人のために標榜と作さん」
私流に現代語訳すれば、「(このような場所に松を裁えるのも)一つにはお寺の境内が綺麗になって、訪れた人々が「あぁ閑静なお寺だな」と心休まるようになればという思いからであり、もう一つは未来の修行者達が大きく育った松を見て、昔もここで修行されていた方々が居たんだなぁという目印になればいいからという思いからです」、ということでありましょう。
そう言って臨済禅師は持っていた鍬で地面を三度、「トントントン」と叩いたというのが「臨済裁松」のお話しです。
この話は臨済宗では大変有名で、現在妙心寺の境内に沢山の松が裁えられているのも、その影響だと言えるでしょう。
この「トントントン」がくせ者で、私はここに臨済禅師の「裁えた松がうまく育つかどうかは判らないが、自分は自分の為すべきことを為すまでです」という思いが現れていると思うのです。

四国の旧遍路道や熊野古道を歩きますと、奥深い山の中でも自然石で階段状に作られた場所に出くわすことがあります。最近のものはコンクリート製の儀木ですが、そうではなく自然石の場合は随分以前に作られたものだと思います。そうした石は、そこを通る人が難儀しないで良いようにと石組みされたものですが、一体その石を誰がどこから持ってきて、どんな思いで組み上げたのか?と思うと有り難さで胸が一杯になります。

あるいは又、日本全国、田舎の山の中に行けばどこにでも見受けられる風景ですが、山間地帯の段々畑や棚田などの畦は小石を積み上げたものが少なくありません。そしてそれらの石組みは、どう見ても50年以上は経つものばかりです。
果たして今のようなトラクター等の農業機械が無かった時代、その石組みを築く為に一体どれほどの労力や時間が必要であったかと思う時、先祖の子孫に対する思いに対し感謝せずには居られません。

なのに今私達は、将来の子孫達に一体何を残そうとしているのでしょうか?

今朝は、お互いに「自分は一体何をやっているのか?」と自問自答したい、そんな気分にさせられる「厳谷に松を裁える」という禅語でした。

人従橋上過 橋流水不流 『五燈会元』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「人従橋上過橋流水不流『五燈会元』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

さて、先だって7月23日に「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る」を引き当て解説致しました。その時

>後半の説明はいつの日にか、「禅語ったー」で「人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず」が出た時の為に残しておくとして、
>一言だけ拙い小衲の理解を申し上げますと、これは存在と時間の関係について詠っている様に感じています。

と書いていますが、こんなに早く後半を引き当てるとは思いませんでした。^^
「空手にして鋤頭・・・」の時にも説明した通り、もともとこれらは傅大士(497-569)による一連のひとつの詩偈です。
あらためて全文を眺めてみましょう。

空手にして鋤頭を把り (手を使わずに田畑を耕し)
歩行して水牛に騎る (歩きながら水牛に乗る)
人橋上より過ぐれば (そういう人が橋を渡れば)
橋は流れて水は流れず (橋は流れて水は流れず)
※カッコ内山本現代語訳

前半で解説した通り、基本的にこの偈は「無心の自由な働き」を表現しています。
現在花園大学学長を務められている、細川景一師の『枯木再び花を生ず』禅文化、の解説を引用してみましょう。

「紅葉織りなす大自然の中、渓流に沿って歩いて行きます。聞こえるのは、風の音、水の音だけです。ふと橋上に立ち止まって、サラサラ流れる谷川を見つめます。いつの間にか、大自然の中に自分が没入して、聞いている自分がなくなってしまいます。谷川が流れているのか!自分が流れているのか!橋が流れているのか!自分と流れが一枚に成りきった「無心」の消息を、「橋は流れて水は流れず」というわけです」

禅語の中には主体と客体が自由に入れ替わった表現が多くみられますが、それは「無心」、「無我」であればこその自由な働きです。
「無心」とは立場が固定化されていないことです。このことを細川師は「白紙の状態」とも解説されています。
さらに細川師はオイゲン・ヘリゲル氏の『弓と禅』を紐解かれ、「射られる的と、射る自分がピタッと一枚に成った所、この法身の偈の真髄です」と締め括っておられます。

もうこの語の解説は以上で充分なのですが、前回の約束ですので、敢えて恥を忍んで私見を披瀝してみたいと思います。
昨日の新潟福島の大雨では、大変な被害で被災地の皆様にはお見舞い申し上げます。
常々降水量の少ない香川でも、数年前には僅か2~3日で500㍉以上の雨が降ったことがあり、その時には当山の裏山が大きく崖崩れしましたのでとても他人事とは思えません。
なのでこの時期にこういうことを申し上げるのは、不謹慎かも知れませんが何卒御寛恕下さい。

この偈の前半が「無心無作の妙用」であるのは何度も申し上げた通りですが、その妙なる働きは何も田を耕す時だけ、牛に乗る時だけにとどまらないのは言うまでもありません。朝起きて洗面し、食事して仕事に出掛ける。行住坐臥のすべてが無心であるならば、即ち一生涯が無心の働きであります。
そこで今度は転句、結句の場景を第三者的視点で眺めてみますと、そういう無心で生きている人が橋を渡って通り過ぎて行った訳です。
私がこの「過ぎる」という言葉に現代日本語的に囚われ過ぎているのかも知れませんが、人が橋を渡って去って行くと画面に残るのは橋と川の流れだけです。この時に思ったのは、「あぁ橋は大雨が降れば流されることもあるな」という事でした。

もちろん川も長い年月で蛇行したり、地殻変動で流れを変えますが、基本的に大地に降った雨は高い方から低い方へと流れるのが常でありまして、「清流間断無し」なんていう禅語もありますが、川の流れ、水の流れというものは絶えることの無いものを象徴した普遍的な存在です。
一方、橋というのは人工的建造物でありますから、長い年月では流されてしまうことも少なくありません。普遍的存在では無い訳です。

ここで思ったのが「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という、有名な『金剛経』の一節です。
詳細はこれも次の機会に譲りますが、一時もとどまることの出来ない私達の心ですが、その一瞬一瞬を無心に生きることによって過去・現在・未来という時間に囚われることなく、時間を超越した存在になると思うのです。
橋を渡ることを「到彼岸」などというと、さらに的外れで滑稽な話に成ってしまうでしょうが、いずれにせよ私達の人生には限りがあり、この世に生を受けた人は、いつか必ずこの世から去って行きます。

しかしながら一生涯を「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る」様な人生を送った人であるならば、生死とか、時間といったものに最早限定されない、自由な生命を生きている訳です。
一方、私達は日常の常識では「橋は堅牢で安心な物」と考えますが、実はそれがあたり前では無いことは既に述べた通りです。数十年、数百年、数千年という長い時間でモノを見た場合、寧ろ「橋は流れて水は流れず」 (人工的な文明は滅んでも、自然界の法則やずっと受け継がれていく生命の流れは今も昔も変らない) という方がしっくり来るなぁ、と言うのが私のこの語の感想なのです。

何か私達は自分中心な見方をする中で、本末転倒して物事を見ているような気がするのですが、無心無我を生きる人は、また違う景色を見ている、と言うことをこの語は示しているのかなと思った次第でした。失礼致しました。

歩々是道場『禅林類聚』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「歩々是道場『禅林類聚』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

よく似た禅語に「直心是道場」というのもありますが、道場は何も坐禅堂とか、武道館に限らない、行住坐臥、日常生活全て道場であるという意味です。
そうした意味では自分を向上させていく道に終りというのは無いのでしょう。人生は死ぬまで道場の真っ只中であるとも言えましょう。

私共、臨済宗では僧堂での雲水修行が最も大切とされています。もちろん僧堂での経験は僧堂でしか得られないものも多く、その後の僧侶としての基礎を学ぶ場でありますが、同時にその後の修行の仕方を学ぶ場でもあるのではないでしょうか。

昭和の大禅匠、般若窟山本玄峰老師の遺徳を偲んだ、玉置辨吉編著『回想 山本玄峰』春秋社の中で、その法を嗣がれた中川宋淵老師の「玄峰老師年譜普説」と題した講演録が収録されています。その中で、玄峰老師が円福寺で見性宗般老師の印可証明を受け、法を嗣がれた時のことを評してこう仰っています。
「何も、それで修行が終わったのではないけれども、もうこれで何処に出ても、何処に転がしておいても、一人で修行がつづけて行けるという証明であります。」

大事了畢された老師方でさえそうなのですから、況んや私共はです。
しかし、師家分上の方々は、それこそ四条大橋の橋の下であっても道場と同じ心持ちで過ごせるのに対し、私などはつい社会に出てしまうと法務や雑用に追われて、つい「僧堂だったら坐禅出来るのに」とか「家族が居なければ」などと、「たられば」を考えがちであります。
そんな時に思い出したいのが、今日の禅語「歩々是道場」です。
何も静かな禅堂での接心だけが修行ではありませんし、雲水当時から「動中の工夫、静中に勝ること百千万億倍」と教えられて来た筈です。
そのことを忘れずに、日々自らの務めを果たしていきたいものだと、あらためて感じました。