看々臘月尽『虚堂録』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「看々臘月尽『虚堂録』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

おはようございます。昨日の禅語は「看よ看よ臘月尽く」です。
元は虚堂智愚禅師(1185~1269)の『虚堂録』に収録されている言葉です。この語は良く年の瀬の床の間で見かけますが、臘月とは12月のことで、「ほら、今年もいよいよ終りだよ」ということです。
入矢義高監修『禅語辞典』には「みるみるうちに年は暮れかかる。あっという間に一生の決着の時がやってくる」とあります。「光陰矢の如し」ということでしょうか。

元々『虚堂録』では、「香林因みに僧問う。萬頃の荒田、是れ誰をか主と為す。林云わく。看よ看よ臘月盡く」と、以前、「香林撃竹」で少し紹介した、香林澄遠禅師(908~987)の言葉として収録されています。
現代語訳すると、香林禅師に一人の僧が尋ねました。「この見渡す限りの荒れ地の主は誰ですか?」と。そこで香林禅師が答えた言葉が「看よ看よ臘月盡く」だった訳です。

この見渡す限りの荒れ地とは、けして休耕田のことを言っているのではありません。仏教では心のことを「心田」とか「福田」と言うように、この「荒田」も心のことを指しています。
かつて開拓時代、耕された土地は耕した人のものでした。しかし耕す前は誰のものでも有りません。
同様に心田を耕し、自らの主体性をハッキリと自覚した人にとってみれば、心はもちろん自らのものでありましょうが、それ以前、草茫々で荒れ放題の心は一体誰のものですか?と、僧は聞いたのです。
その時の香林禅師の答えが「ほら、もう今年も終りだぞ」というものでした。
香林禅師のこの問答は、『虚堂録』にしか収録されていないのですが、大応国師のお師匠さんの『虚堂録』に収録されていた為か、我が国では大変有名になり、師走の床の間の定番となりました。

この僧の問いは、言ってみれば「私達はどこから生まれたのですか?」とか、「死んだらどうなりますか?」というような形而上の問題であった様に思います。香林禅師は、そういう机上の空論の様な疑問に囚われている僧に対し、「そんな心の根源は何ですか?という様なことでぐずぐず悩む前に、さっさと自分の心を耕さないか!時間が無いぞ!」と仰っているのではないかと思うのです。

思えば私も47歳。若い若いと言われて来ましたが、もう人生の折り返しはとうに過ぎました。
残り時間で何が出来るのか?何をするのか?「看よ看よ臘月尽く」と香林禅師に言われているようです。

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