忘筌『荘子』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「忘筅『荘子』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

自分で作った「禅語ったー」ですが、正直この忘筅を掛け軸や何かで見た記憶はありません。芳賀幸四郎氏の本に出ていたので収録したのですが、今見直してみるとしかも字が間違っていることに気づきました。^^;

正しくは忘筌(ぼうせん)です。
訂正しておきました。

これは大徳寺塔頭の孤篷庵にある茶室の銘でもあるそうで、元は『荘子』の「外物篇」に「筌は魚に在る所以なり。魚を得て筌を忘る。蹄は兎に在る所以なり。兎を得て蹄を忘る」とあるのに基づいているのだそうです。

筌とは魚を捕らえる竹で出来た罠のことであり、蹄もまた兎を捕らえる罠だそうです。
つまり筌や蹄は獲物を捕らえる道具=手段であって目的では無い。獲物を捕らえてしまえば手段にもうこだわる必要はありません。
ところが実際には目的よりも手段にばかり拘っているのが我々凡夫では無いでしょうか?

もう随分前ですが、HPに開設していた掲示板で「人は何の為に生きるのですか?人生の意味を知りたい」と聞かれたことがあります。
そこで私は「何の為でも無い。人生に意味を求めてはいけない」というような返事をしたのですが、残念ながらその人に私の真意は伝わりませんでした。
どうも現代人はみんな手段にばかり囚われているのかな、と思います。

道元禅師に「只管打坐」という言葉があります。「ただ坐る、ひたすら坐る」ということでしょうか。
同様に人生も「ただ生きる、ひたすら生きる」ことこそが目的ではないかと思うのです。

追記 その後、布教師同期でもある広島鳳源寺の和田牧生師よりTwitterで以下のような投稿がありました。折角ですので転載しておきます。

「忘筌は抛筌ともいいますね。利休はこの号を使うことで家業に見切りをつけてお茶道に邁進したと。筌は魚具、魚問屋をやめることが筌を抛つことだったのでしょう。忘と抛、多少意味合いが違ってくる感じ。」

なるほど、利休の号が抛筌だったとは知りませんでした。

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