人従橋上過 橋流水不流 『五燈会元』

今日のjissoujiに贈る禅語は、「人従橋上過橋流水不流『五燈会元』」です。 http://shindanmaker.com/18220 #zengo

さて、先だって7月23日に「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る」を引き当て解説致しました。その時

>後半の説明はいつの日にか、「禅語ったー」で「人橋上より過ぐれば、橋は流れて水は流れず」が出た時の為に残しておくとして、
>一言だけ拙い小衲の理解を申し上げますと、これは存在と時間の関係について詠っている様に感じています。

と書いていますが、こんなに早く後半を引き当てるとは思いませんでした。^^
「空手にして鋤頭・・・」の時にも説明した通り、もともとこれらは傅大士(497-569)による一連のひとつの詩偈です。
あらためて全文を眺めてみましょう。

空手にして鋤頭を把り (手を使わずに田畑を耕し)
歩行して水牛に騎る (歩きながら水牛に乗る)
人橋上より過ぐれば (そういう人が橋を渡れば)
橋は流れて水は流れず (橋は流れて水は流れず)
※カッコ内山本現代語訳

前半で解説した通り、基本的にこの偈は「無心の自由な働き」を表現しています。
現在花園大学学長を務められている、細川景一師の『枯木再び花を生ず』禅文化、の解説を引用してみましょう。

「紅葉織りなす大自然の中、渓流に沿って歩いて行きます。聞こえるのは、風の音、水の音だけです。ふと橋上に立ち止まって、サラサラ流れる谷川を見つめます。いつの間にか、大自然の中に自分が没入して、聞いている自分がなくなってしまいます。谷川が流れているのか!自分が流れているのか!橋が流れているのか!自分と流れが一枚に成りきった「無心」の消息を、「橋は流れて水は流れず」というわけです」

禅語の中には主体と客体が自由に入れ替わった表現が多くみられますが、それは「無心」、「無我」であればこその自由な働きです。
「無心」とは立場が固定化されていないことです。このことを細川師は「白紙の状態」とも解説されています。
さらに細川師はオイゲン・ヘリゲル氏の『弓と禅』を紐解かれ、「射られる的と、射る自分がピタッと一枚に成った所、この法身の偈の真髄です」と締め括っておられます。

もうこの語の解説は以上で充分なのですが、前回の約束ですので、敢えて恥を忍んで私見を披瀝してみたいと思います。
昨日の新潟福島の大雨では、大変な被害で被災地の皆様にはお見舞い申し上げます。
常々降水量の少ない香川でも、数年前には僅か2~3日で500㍉以上の雨が降ったことがあり、その時には当山の裏山が大きく崖崩れしましたのでとても他人事とは思えません。
なのでこの時期にこういうことを申し上げるのは、不謹慎かも知れませんが何卒御寛恕下さい。

この偈の前半が「無心無作の妙用」であるのは何度も申し上げた通りですが、その妙なる働きは何も田を耕す時だけ、牛に乗る時だけにとどまらないのは言うまでもありません。朝起きて洗面し、食事して仕事に出掛ける。行住坐臥のすべてが無心であるならば、即ち一生涯が無心の働きであります。
そこで今度は転句、結句の場景を第三者的視点で眺めてみますと、そういう無心で生きている人が橋を渡って通り過ぎて行った訳です。
私がこの「過ぎる」という言葉に現代日本語的に囚われ過ぎているのかも知れませんが、人が橋を渡って去って行くと画面に残るのは橋と川の流れだけです。この時に思ったのは、「あぁ橋は大雨が降れば流されることもあるな」という事でした。

もちろん川も長い年月で蛇行したり、地殻変動で流れを変えますが、基本的に大地に降った雨は高い方から低い方へと流れるのが常でありまして、「清流間断無し」なんていう禅語もありますが、川の流れ、水の流れというものは絶えることの無いものを象徴した普遍的な存在です。
一方、橋というのは人工的建造物でありますから、長い年月では流されてしまうことも少なくありません。普遍的存在では無い訳です。

ここで思ったのが「過去心不可得、現在心不可得、未来心不可得」という、有名な『金剛経』の一節です。
詳細はこれも次の機会に譲りますが、一時もとどまることの出来ない私達の心ですが、その一瞬一瞬を無心に生きることによって過去・現在・未来という時間に囚われることなく、時間を超越した存在になると思うのです。
橋を渡ることを「到彼岸」などというと、さらに的外れで滑稽な話に成ってしまうでしょうが、いずれにせよ私達の人生には限りがあり、この世に生を受けた人は、いつか必ずこの世から去って行きます。

しかしながら一生涯を「空手にして鋤頭を把り、歩行して水牛に騎る」様な人生を送った人であるならば、生死とか、時間といったものに最早限定されない、自由な生命を生きている訳です。
一方、私達は日常の常識では「橋は堅牢で安心な物」と考えますが、実はそれがあたり前では無いことは既に述べた通りです。数十年、数百年、数千年という長い時間でモノを見た場合、寧ろ「橋は流れて水は流れず」 (人工的な文明は滅んでも、自然界の法則やずっと受け継がれていく生命の流れは今も昔も変らない) という方がしっくり来るなぁ、と言うのが私のこの語の感想なのです。

何か私達は自分中心な見方をする中で、本末転倒して物事を見ているような気がするのですが、無心無我を生きる人は、また違う景色を見ている、と言うことをこの語は示しているのかなと思った次第でした。失礼致しました。

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